FACTORY
作業場風景「このたびは愛媛大学の正門の所に私の噴水作品を制作する機会を与えてくださったことに心より深くお礼を申し上げます。
このお話をいただきまして、どのようなものを作るかという構想を得るために、まずこの場所に来てみました。来て見て強く感じたことが二つありました。ひとつは「水の匂い」もうひとつは「古代の響き」です。
そこで、私はこの作品のメインのテーマは「舟」しかも古代の舟、つまり「石舟」のようなものになるだろう、と考えたのです。
実際そのときにお伺いした話では、やはりこの場所は弥生時代の遺跡のあるところで、しかも豊富に水の湧く場所であるとのことでした。
ここの部分、あたかも私が素晴らしく研ぎ澄まされた感覚の持ち主であるかのように思えるところですが、実はそうです(笑)
ご依頼が<大学の構内に置く噴水彫刻>ということなので、わたしの感じからすると、よく公園などで見受けられる噴水のような「水を吹き上げるもの」ではどうしてもしっくりとはきません。大学のキャンパスにはふさわしくないと思うのです。
Fontaine=噴水(吹き上げる泉)つまりFontaine Jaillissanteではなくて、Source=湧水
(湧き出て溢れる泉)のほうがよりふさわしいと感じられました。
それは、こんこんと溢れる水に浮かぶような彫刻のイメージです。
それから、この場所の広さ、つまりグリーンプロムナードを含めた、広場全体の空間に対して、作品の大きさをどのくらいにするかということを考えました。
これだけの大きな空間に小さな作品では、作品が広場という空間に飲み込まれてしまって、どうしても貧相になってしまいます。かといってただ単に大きく作ればいいというものでもありません、重量だけでも大変なものになってしまい、運搬や設置の上で技術的、経済的な問題が起きてしまいます。
なぜならば制作はすべてフランスのアトリエで行い、仕上げたものを梱包して日本まで運んでこなければいけないのですから。
そこで、この空間に負けないだけの大きさを持ち且つ重量は安易に運搬できる重さのモノ
(とはいえ3点のうちで一番大きい作品は軽く3トンはあるのですが)をと考えていくうちに、自ずと「3点の作品からなる組作品」というアイデアが生まれたのです。
そうしてBassin(湧水盤)に3体の彫刻を水に浮かぶように並べ、そのBassinから溢れ出た水が、もうひとつ外側のBassinに流れ落ち、それが回って排水溝に流れる、というアイデアもそのとき生まれました。3点の組み作品にすることによって、石の色も材質も変化をつけて組み合わせることが可能になりました。
この組作品のタイトルは 「櫂持て、杖立てよ、鐸打ち鳴らせ」です。
これではまるで禅問答のようですね(笑)少し説明いたします。
中央の舟のような形の作品が、冒頭でお話したこの作品の主旋律となったテーマです。
舟=véhiculeは<運ぶもの>であり、それは時を越えて過去から未来へ、また此の地から彼の地へと何ものかを運ぶ手段です。愛媛大学のひとつの理念<知の共同体を築く>ための、知を運び共同体を拓いていく舟があります。しかし舟だけではなく実際にそれを漕ぐ意思こそが要るのです。それが「櫂を持て」ということなのです。
赤い石Red travertinの作品は大地から生み出された帆立貝をイメージしています。
サンチアゴ巡礼=St Jacque de compostelleのシンボルとして使われているホタテ貝は聖ヤコブの杖に此の貝がくくりつけられていたことに起因するといわれています。
そうしてサンチアゴへの巡礼の目的はまさに<古い自分を捨てて新しく再生」するためなのです。「サンチアゴ」はフランス語ではSaint Jacques de compostelle といいます。
このCompostelleは Campo stellaのことで、<星降る野>のことです。このキャンパスのなかに<夜空一面の星が降り注ぐような野原がある>とその情景をイメージするだけでも美しいと思うのです。
愛媛大学のもうひとつの理念<地域にあって輝く>には、自らの殻を破り、地域にいながらも無限に自由な世界で光輝けという願いが込められています。
その思いを常に掲げておく為に、この二つ目の作品を「杖を立てよ」と名づけたのです。
一番大きな縦型の作品は弥生時代に作られた銅鐸を彷彿させるように作りました。
愛媛大学の此の場所は弥生の遺跡のあるところです。此の時代に作られた銅鐸はそのころの共同体の所有物である祭器です。
三番目の大学の理念は<百年の伝統に学ぶ>です。大学の百年の叡知の蓄積に誇りを持ち高らかに此の宝鐸を打ち鳴らせてください。
それがこのタイトル「櫂持て、杖立てよ、鐸打ち鳴らせ」なのです。
先程、少し時間がありましたので柳沢学長のお部屋でお話をしました。
そのとき学長から『作品というものは、いつ完成したとわかるのですか。』というお尋ねがありました。私は、『それは自分で作ったものに自分が思わず感動してしまった時です。
そのとき作品は作者を超えて、作者の手を離れて自立するのです。』とお答えしました。
今朝久しぶりにここへ来て、この作品を見まして、また改めて感動いたしました(笑)
この作品は私のいままでの仕事の集大成とでもいうべきものです。
こんな機会を与えて下さった柳沢学長と愛媛大学にもう一度心からお礼申し上げます。
ありがとうございました。」
濱田亨