TORU HAMADA

FACTORY

作業場風景
美術評論家 Victor VANOOSTEN

濱田の絵画に出会ったとき、まず目を瞠らせるものは、その色彩の密度である。
アトリエの高い壁には黄色や青、赤ピンク緑ホワイトなど、ところどころ黒で強調された色彩の塊が、自由に重ねられ、緊密・複雑に絡まり、キャンバスの上で輝きを競い合っている。
一瞥しただけでは平坦に見えるかもしれないが、それらの絵の表面では鮮やかな色彩が、重ね塗りや意表をつくコントラストによって巧みに呼応している。

濱田にとって絵画とは、ただ「思いに任せて次から次へと色面を並べて」いけば出来上がるというものではない。作者は全ての作品で、画面に生まれ出てきた形をまずは壊してゆくのだ。
マチエール(絵具)を何度も塗り重ねることで前の形が消され新しい形になる。それがまたさらに別のかたちへと作り直されてゆく。この<構築と破壊>という緊張からこそ、そのかたちが現れる以前には思いもよらなかった形が、まさに色彩そのものから生まれ出てくるのである。
濱田は形と色彩に関する昔からの問題を何度も繰り返し自問する。やがてmaskingという技法を用いることで色彩の重要さをより一層高らしめることを得たのである。
<異質の色面>を乱入させることによって秩序ある色彩構成に新鮮な驚きを与え、作品をまったく別なものにしてしまうのだ。
マチスがグワッシュで彩色された紙を切り抜いてパピエ・コレを行なったように、濱田はキャンバスの上にマスキングをして直接絵具を嵌め込んでかたちを取り出す。

そうして彼の制作とは<予定調和を目指して躊躇うことなくまっすぐに>描いていくことではないのだ。マチエールを加算することが重要なのではない、色彩の数多な可能性を活用しなければならない。
描くこととは逆の作業をすること、つまり既に描いたものの一部を削ぎ取るのである。このことで作品は益々生き生きと輝き、密度が増している。

濱田作品のもうひとつの特徴として、精力的に描かれた<線>の魅力が挙げられる。
キャンバスが地のまま白く残されていようが、あるいはさまざまな色に塗られていようが、これらの作品には走り回る描線や記号、作者自身が<殴り書き>と呼ぶところの天真爛漫なデッサンなどが描き込まれている。
鉛筆やオイルチョークで描かれたモチーフは、すばらしいカラリストの織りなす色彩の調べの中で響き渡り、穏やかな或いは鋭い動きによって画面を賑わせている。
濱田は全ての作品のなかにこの声を響かせ、驚かせる。
それは彼の存在の一番奥深いところから生まれた本能的な動作なのであろう。
そうしてこれらは非常に素早く描かれているので、固定観念や理性に囚われないでいられているのだ。
まったく新しい言語のこれらの記号を、濱田は毎回絵を描く度に生み出している。

なにが描かれているか分からないが故にこれらのかたちは想像力を掻き立てる。そうしてこの作家の予測できない行為によって、われわれの埋もれていた内的世界は目覚め、日の光を浴びることが出来るのだ。
彼特有の記号-écriture-を描くことで、濱田はすべての伝統的なカリグラフィや既成の言語、規格サイズのモチーフから彼自身を解放した。制作することによってまた自分が生まれ変わるという内的物語を紡ぎ出すのだ。

実際、これらの<殴り書き>は彼にとって赤子のデッサンに喩えられるものなのだ。